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Column03:国産第一号の燐票いろいろ

登録商標の一番手は明治18年の「寝獅子」から、
そして広告票へと・・・。

Column Content
Column01|マッチの発明は、ヨーロッパから
Column02|清水 誠と新燧社商標
Column03|国産第一号の燐票いろいろ
Column04 | 岩谷の天狗煙草票
Column05 | スウェーデンにある世界唯一のマッチ博物館
Column06 | 苫小牧市博物館 「マッチワンダーランド」展覧会記
column07 | 神戸大学付属図書館「近代神戸の源流を訪ねて・鈴木商店とマッチ産業の盛衰」展覧会記
column08 | アンデルセン「マッチ売りの少女」の絵本
column09 | マッチと花火
column10 | 木版の版木商標
Column11 | 中華民国向け燐票
Column12 | インド向け輸出マッチ
Column13 | 幻の大元帥票・前編
Column14 | 幻の大元帥票・後編

燐票いろいろ

 明治からのコレクターの間ではマッチラベルのことを燐票(りんぴょう)、マッチレッテル、マッチペーパーなどと呼んでいた。コレクター連中にとって一番ほしい燐票のひとつにはマッチが出始めたころの初期の燐票、つまり古票といわれるものがあり、彼らは同好会での交換会を通して多大な出費も覚悟で必死にボロボロになりかけた古票を集めていた。
 しかし、そんなことが出来たのはむかしのこと、いまとなっては骨董関係や神社での骨董市、古本屋などで探してもいっこうにお目にかかることはない。現在では、蘭渓文庫(らんけいぶんこ)の燐票帳に仰々しく貼込まれている古票の一群が、いま見ることができる唯一の存在かも知れない。
 古票の絶対の規定があるわけではないが、だいたい明治20年代以前のものを指していると言ってよいだろう。つまり、明治30年代に入るとマッチも立派な日常品となり庶民に行きわたるだけではなく海外へも大量に輸出されるようになり、生産量が年間数十億から90億個ちかくのマッチの内、8割のマッチが中国、インド、東南アジアへと渡っていった。
 マッチ産業が活発になればマッチ会社も増え、おのずとマッチ箱に張られた燐票の種類も豊富となり、膨大な数量が印刷された。この時期のものだと、いまでもそれなりに探し当てることが可能である。
 そこへいくとまだ産業として不安定でもあった明治20年代以前のものは数も限られていて貴重なものとなっている。
 マッチラベルコレクター(愛燐家(あいりんか)または燐票家(りんぴょうか)とも呼んでいる)にとっては、いつ、どれほどの製造期間内で、どんな図柄を、どのくらい印刷して出回ったかで骨董的評価を決め、入手しにくいものほど珍品、逸品と称して一番の蒐集の対象にした。
 古票の全貌は別の機会に譲るが、ここでは登録商標された商標マッチ(本票)、宣伝に使われた広告マッチ(広告票)、煙草の宣伝に配られたマッチ(煙草票)、燐趣(りんしゅ)同好会から出された展覧会の記念マッチ(記念票)の第1号の燐票を紹介しよう。

登録第1号の寝獅子

詳細へ 商標広報
詳細へ 清燧社製 寝獅子
 まずは国産で最初に登録を果たしたマッチ登録商標第1号は、神戸の清燧社(せいすいしゃ)が登録した「寝獅子」と呼ばれた商標。
 明治17年6月にわが国で初めて商標の登録制度が施行され、マッチ会社としても瀧川辨三(たきがわ べんぞう)が設立した神戸の清燧社と東京、芝区の小路則孝(取明社(しゅめいしゃ))が明治17年10月11日に出願申請し、翌、明治18年6月20日に両者とも登録された。
 清燧社の「寝獅子」が処理上、第321号として一番手となり、次いで同じく清燧社の「鷲」が第322号、三番手に小路則孝の「游龍」が323号とされ、日本で最初のマッチ工場を設立した清水 誠の新燧社の商標は、同日に「枝桜」が第324号、「一輪桜」が第325号、「奔馬」が第326号と続けて登録を果たしている。
 さて、この「寝獅子」商標を調べてみるとスウェーデン製のマッチの絵柄にソックリ。文字の一部を変えただけであとの意匠はそのまま真似た模倣商標だった。
 これは、商標に対する認識の低さもあったと思われるが、その当時、舶来品がもてはやされていた世相に合わせて西洋風に仕立て上げたことがこの意匠でもうかがい知れる。
詳細へ スウェーデン、イェンシェピング社製ライオン 清燧社製ダース用大判票 寝獅子

玉塚商店が配った広告票

詳細へ 中山製 福島中佐シベリア横断の図 堀部組製 福島中佐シベリア横断の図

 販売用の商標マッチに続いて次に紹介するのは明治30年代から徐々に作られ始めた宣伝用の広告マッチだが、無料で配った最初のマッチとしては、明治26年、東京上野公園で福島安正中佐のシベリア大雪原単騎横断の帰国歓迎大祝賀会が催された折に会場で配ったとされる株式仲買玉塚商店の店名入り広告マッチがあげられる。この玉塚商店は明治24年に創設され、のちに玉塚証券となっている。

詳細へ 広盛社製 祝凱旋

 ちなみに福島安正は、情報収集に優れた才能を発揮した人物で、陸軍省から当時、懸念されていたシベリア方面の情報収集を命じられて明治25年、ベルリンからウラジオストックまで1年4ヶ月をかけて単騎で横断し、シベリア鉄道建設状況などを視察したことで有名。帰国後、日清戦争時は第1軍参謀、日露戦争では大本営参謀等を歴任した。

村井の煙草票ヒーロー

詳細へ 大演習寄贈品 ヒーロー 巻煙草 ヒーロー

 広告マッチと同様、無料配布の宣伝用の煙草マッチについては、日清戦争後の明治28年、近畿の広野で陸軍大演習が挙行された折に京都の煙草業者、村井兄弟商会が自社の煙草のデザインを描いたマッチを添えて贈ったのが最初とされている。

詳細へ 天狗燐寸 大天狗

 村井は、煙草にアメリカ葉を取り入れ、ネーミングもハイカラな「ヒーロー」、「サンライス」など西洋風なイメージ戦略で販売を進めていったが、それに対して鹿児島から上京し、東京、銀座に店を出していた岩谷松平の岩谷商会は、純日本葉を使用し、天狗煙草のブランドのもと赤天狗を商標として「金天狗」、「大天狗」、「国益天狗」など天狗だらけの煙草名で徹底的に村井に対抗した。ここに西洋仕込みの村井と九州男児の岩谷の世間も賑わした一大商戦が繰り広げられたのだが、明治37年に日露戦争の軍費調達のため国の専売制となり、華やかな煙草の民営時代は終焉を迎えたのである。

燐枝錦集会の記念票

詳細へ 東京勧業博覧会記念

 第一号の最後に紹介するのは、大きな会場で催された燐票展覧会の最初の記念マッチと思われる記念票
 明治40年3月20日から開催された東京勧業博覧会での期間中の3月25日、中央新聞の後援で「燐枝錦集会(りんしきんしゅうかい)・燐票展覧会」が会場内に設けられたホーム館接待休憩所で開かれた。当日は、会員一同の珍品、逸品が壁面にところ狭しと飾られ、会を仕切る福山碧翠(ふくやま へきすい)の特製奴マッチが数千個配られ人気を呼んだという。(明治40年から「日本燐枝錦集会」の名称となる)
 「燐枝錦集会」は明治36年に燐票蒐集大家といわれた福山碧翠以下、柳川一蝶斎、桂文楽、早川中唐が発起人となって発足した最初の同好会で、その後も燐趣界の中核をなし、昭和12年まで続き、その間の会員は3000人にもなったといわれる。

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