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マッチの代替品出現 - 昭和51〜60年(1976〜1985)

昭和51年(1976)5月に世界で最も優れたマッチ製造機械であるスウェーデン製の完全自動マッチ製造機一式が姫路市白浜町のパイオニアマッチ協同組合に設置され、稼働を始めた。この機械はマッチ軸木に頭薬をつける機械(自動マッチ製造機)、箱貼機、箱詰機および包装機まですべてを特殊コンベアで連結して一つの機械として稼動し、極めて少ない人数でマッチが製造できる。パイオニアマッチ協同組合では、たばこ用マッチを中心に共同生産を目的として設置した。

しかしながら、昭和51年頃からマッチ代替品が出現し、次第にマッチの需要が減り始めた。即ち、100円の使い捨てライター、各調理器具および暖房器具の自動着火装置が出現し、販促商品であった広告マッチに対しては、広告面をもつポケットティッシュやその他の販促品が街頭で配られるようになった。

昭和52年(1977)に、49年のマッチに対する物品税撤廃および50年の出荷数量制限撤廃等による事務量の減少に対応して、社団法人日本燐寸工業会事務局の規模を縮小するべく、神戸市長田区浪松町の敷地および建物を兵庫県に売却し、事務所を神戸市中央区北長狭通りに移転した。これにともない、浪松町にあった燐寸機械研究所及び化学研究室も閉鎖した。

マッチの需要は昭和48年をピークに以後減少を続け、52年には最盛時の59%にまで減少した。業界では需要に応じた設備にするべく、昭和52年からマッチ製造機の共同廃棄事業(マッチ製造業制限設備共同廃棄事業)を実施した。この廃棄事業は自動マッチ製造機(紙軸マッチ製造機を含む)が中心で、その台数は25台に達する。

その後もマッチの需要が減少したので、昭和55年(1980)に第2回の共同廃棄事業を実施した。その時の廃棄事業は自動マッチ製造機、箱詰機および箱貼機全般を含むもので、廃棄台数は自動マッチ製造機4台、箱詰機57台、箱貼機59台、合計120台におよぶ。特に注目されるのは、パイオニアマッチ協同組合に設置された完全自動マッチ製造機の廃棄である。この機械は単一製品の大量生産には最適であるが、マッチ需要の大半を占める広告マッチは箱の形状が多種にわたり、小箱の図案は広告主毎に変わるので、製造に際し手替わりが多いため、日本の広告マッチ製造には不向きであった。

マッチ販売の正常化と合理化を図るため、昭和54年(1979) に家庭用マッチ共販機構およびマッチ業全国公正取引協議会を設立、昭和55年には広告用マッチ共販機構を設立、57年には広告マッチ流通協議会を設立している。また、品質向上のために昭和59年(1984)には、欧米なみに軸木の太さが2.2ミリ角に改正された。

昭和22年以来、マッチ業界が政府関係機関や東京地区の販売店団体等との連絡窓口になっていた東京銀座にある社団法人日本燐寸工業会東京事務所の建物を昭和60年(1985)に売却し、業界のための運用資金とした。

明治から大正にかけて、日本はスウェーデン、アメリカと並ぶ世界的なマッチ生産国であったが、その当時から日本のマッチ製造業者は、中国・インドに製造機械の輸出や技術指導をして現地の近代化に協力している。昭和40年以後でも、日本のマッチ業界から日本燐寸協同組合を通して、発展途上国に機械を輸出し、指導した例を挙げれば次の通り。

昭和43年(1968) ブラジル
昭和44年(1969) シンガポール
昭和45年(1970) アルゼンチン
昭和50年(1975) パキスタン
昭和52年(1977) タイ

この他、わが国のマッチ製造機械業者等が東南アジアやアフリカ等多くの地域にマッチの機械を輸出して製造技術を指導している。
昭和41年から60年にいたるマッチの生産量および輸出量は次頁の通り。(出所:日本燐寸工業組合)

昭和(年) 総生産量
(マッチトン)
内・輸出量
(マッチトン)
41 603,585 13,857
42 683,943 16,030
43 647,297 17,575
44 724,163 21,142
45 757,629 22,625
46 716,395 23,644
47 732,061 23,862
48 792,935 18,342
49 688,400 14,344
50 625,812 10,766
51 568,421 14,246
52 465,240 15,041
53 425,514 12,233
54 372,400 13,494
55 317,094 13,300
56 270,095 14,161
57 256,525 17,272
58 209,308 16,297
59 197,072 18,901
60 173,002 17,969