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第1次世界大戦後の不況始まる - 大正5〜14年(1916〜1925)

正3年(1914)に始まった第1次世界大戦は大正7年(1918)に終了したが、その間、欧州のマッチの生産が減少して、日本の輸出は大いに伸びた。大正年間のマッチの生産および輸出は下記の通り。(出所:マッチ工業統計総覧)

大正
(年)
総生産量
(マッチトン)
内・輸出量
(マッチトン)
1 1,056,905 897,438
2 1,034,620 880,185
3 981,005 790,460
4 984,750 880,732
5 1,012,260 826,440
6 1,050,631 883,200
7 967,289 789,348
8 1,044,158 831,012
9 896,295 568,280
10 846,134 463,080
11 560,534 416,740
12 483,934 305,000
13 495,740 268,740
14 482,785 257,200
15 481,746 243,900

(小数点以下四捨五入)

大正6年(1917)には105万マッチトンを生産し、その約84%の88万マッチトンのマッチを輸出したことになる。
わが国のマッチ産業はマッチの輸出とともに伸びてきたのであるが、その中でも中国向けの輸出の増大が大いに影響している。中国向け輸出が旺盛であったのは、関西在住の華僑の活躍に負うところが大きい。ここに明治19年(1886)から大正14年(1925)まで40年間の中国向け輸出量の10年毎の平均値を掲げる。

中国向け輸出年平均
(マッチトン)
総輸出に対する割合
(%)
明19~明28
(1886~1895)
144,523 84
明29~明38
(1896~1905)
404,942 81
明39~大4
(1906~1915)
567,601 72
大5~大14
(1916~1925)
215,425 38

明治年間は中国向け輸出が多く、マッチ産業は順調であったが、大正時代に入ると中国はマッチを自国生産するようになり輸出が減少して、日本のマッチ業界は不況時代に入った。

大正5年に(1916)清燧社と良燧合資会社が合併して、瀧川燐寸株式会社となり、翌6年には鈴木商店の燐寸部と合併して東洋燐寸株式会社が誕生した。また、大正7年には東洋燐寸株式会社の経営者である瀧川儀作は兵庫県下の28工場を統合して、帝国燐寸株式会社を設立、輸出マッチに力を入れた。公益社、日本紙軸燐寸製造合資会社、諌山工場、東工場、山田工場等が合同して、合計12工場の中央燐寸株式会社が成立した。マッチの不況が深刻になると、各製造会社は合併して体質強化を目指した。

スウェーデンのクロイガーは、大正6年にスウェーデン国内のマッチ会社を統合してスウェーデンマッチ会社を設立。この会社は第1次世界大戦後のインフレを利用して、不景気に悩む各国のマッチ工場を安価に買い取り、または各国の国債融資の代償にマッチ専売権を取得する等をして、最終的には43カ国に工場を持ち、世界のマッチ供給の80%を支配したといわれている。後述のように日本にも大きな影響を与えた。

大正11年(1922)黄りんマッチの製造並びに輸出が禁止になった。明治18年(1884)に一旦禁止されたのが、明治23年(1890)に解禁されてから33年目に再度禁止となった。それ以後、日本から黄りんマッチがなくなり、代替えとして無毒の硫化りんを使用した硫化りんマッチを製造しインド向け等に輸出している。この頃になると、第1次世界大戦終了により欧州各国マッチ工場の復活、スウェーデンマッチのインド向け攻勢、中国・インド・ビルマ・仏印・米国等の関税引き上げ、中国等発展途上国におけるマッチ工場の生産力向上等の影響を受けて、輸出量が半減した。マッチ工場では原料高、需要減の対応策として賃金引き下げをしたところ、各工場の従業員数千名が一斉に罷業(ストライキ)状態に入った。規模が大きかったので、関係者は懸念したが、数日で無事解決した。

大正12年(1923)の日本燐寸同業組合聯合会の所属組合員の工場数および従業員数を府県別に列挙すると次の通り。(出所:燐寸年史)

府県 工場数 工員数(人)
兵庫県 62 3,203 7,402 10,605
愛知県 12 43 115 158
大阪府 7 175 427 602
広島県 3 85 201 286
岡山県 1 48 113 161
合計 85 3,554 8,258 11,812

戦後の反動で大正9年に始まったマッチ不況は次第に厳しくなり、大正11年・12年で廃業した工場は21工場、休業は13工場にのぼる。

大正12年には関東大震災があったが、マッチ工場の大部分は関西であったので被害がなかった。しかし、主な消費地が関東であったので、輸送に問題が残り、また外函材料、用紙類、亜鉛板等製造原料がやや高騰した。

大正13年(1924)にはスウェーデン燐寸系の国際燐寸(インターナショナル・マッチ・コーポレーション)が日本の有力会社である日本燐寸製造株式会社の株の過半数を取り、支配下に置いた。引き続き日本のマッチ業者との会談を組合に申し込んできた。大正14年(1925)には組合は協議の結果、コーポレーションからの提携話を拒否して、交渉は打ち切られた。